「先生ただい…」
ただいま、と言いかけて、私はドアの前で立ち止まった。
半開きのドアの隙間から聞こえてくる、女の人の笑う声。
それはよく聞き慣れた声で、すぐに部屋にいるのがクラスメイトの和登ちゃんだと言うのがわかった。
そしてそれに相槌を打つように話しているのは、先生だ。
「あははっ、先生それは違うよー!」
「そうなのか?」
「もう、そんなんだからダメなんじゃない。
こうなったらボクが…あっ、お帰り!今ね、先生が…」
「おいっ!その話はもういいだろう?お帰り、早かったな」
「うん…た、ただいま」
私に気付いた和登ちゃんが、今まで先生と向かい合って座っていた体を伸ばして私を呼んだ。
それにつられて先生も振り返り、お帰りと微笑む。
何故か和登ちゃんに見つかった瞬間、「しまった」と思ってしまった。
悪い事なんてなんにもしてないのに、見ちゃいけないものを見たような、そんな気分で。
二人が話しているのを見て、胸がチクリと痛んだ。
「それより、どうしたの?急に家に来るなんて…」
「こないだ借りてた漫画、読み終わったから返しに来たんだ。
そしたらが留守だって言うから、待たせてもらってたってワケ」
「そんなのわざわざ来てくれなくても、学校で良かったのに」
「いいよいいよ、どうせ暇だったし」
相手を気遣うようにそう言ったけど、でもこれは少し本音で。
休みの日にそれだけの理由で来てくれなくても良かったし、
大体来るなら最初からメールしてくれたら良いのに。
わざわざピノコちゃんも私も出掛けてる時に来るなんて――――――
そう頭をよぎった瞬間、自分は何を考えていたのかとハッと我に返る。
何考えてるのよ私、和登ちゃんはただ漫画を返しに来ただけじゃない。
ピノコちゃんも私も出掛けてたのは偶然で、先生と二人きりになっていたのもたまたまよ。
なのに…この心の中のもやもやは何?
二人がただ話してるだけなのに、それを見て不安になるのは何故?
「―――――?どうかした?」
和登ちゃんにそう声をかけられて、ドキッとする。
嫌な感情を悟られないように笑って取り繕うけど、きっとちゃんと笑えてないんだろう。
和登ちゃんも先生も変な顔で私を見ている。
「何でもないよ…別に、何もさ」
「そう…?」
何でもなくはないけど、そんな事言えるはずないし。
って言うか、言いたくない。
こんな醜い感情、誰にも言えない。
知られたくもない。
心配そうな顔の二人が、こっちを見る。
私の目に映るフレームに、二人がいる。
二人が並ぶ姿、今はそれすら見たくなかった。
「、本当に大丈夫か?顔色もあまり良くないが…」
「ひゃっ…だっ、大丈夫!」
「熱は…なさそうだな」
先生が私のおでこに手をやって、大雑把だけれどもとりあえず熱の有無を確認する。
私はと言うと、和登ちゃんの前で急にそんな事されたものだから何だか恥ずかしくて狼狽えてしまった。
「何だか調子悪そうだね、それじゃボクは帰るよ。お大事にね、。漫画ありがとー!」
「あっうんごめん、わざわざ来てくれたのに」
「良いの良いの!先生も、お邪魔しました」
「ああ…じゃあな」
バタンと戸が閉まる音がして、彼女は帰っていった。
何か悪い事したよなぁ…和登ちゃん何もしてないのに。
「…」
「…」
気まずい。
部屋に残った私と先生は、しばらく無言になった。
「」
「はい」
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だよ!私――――部屋に行くね」
「待て、」
「何?」
「何でそんなに機嫌が悪いんだい」
「っ…」
ズバリ言い当てるのはさすがだな、と思う。
だけどそれは誰のせいよ、と思わず言いそうになって、すんでのところでなんとか思いとどまった。
それにそうは思ったけど、ほんとは誰のせいでもない。
私の勝手な感情のせいだから。
「別に機嫌悪くなんかないし」
「じゃあちゃんとこっちを見なさい。何を怒ってるんだ、一体」
「…怒ってないし」
「それなら睨むのはよせよ」
「っ…もう良いじゃない!離してよ!」
掴まれていた左手を思い切り振りほどいて、リビングを出ようとした。
なのに先生はそれを許してはくれず、逆に今度は右手を掴まれ、私はそのまま後ろから抱きすくめられた。
「理由を聞くまで離さない」そう耳元で、囁かれる。
「ただの自己嫌悪よ。わかったら離して」
「どうして自己嫌悪に?」
「先生には関係ないっ」
なんかもう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
最近の私はどうかしてる。
こないだだってトムのカウンターで久美子と話してるのを見てイライラしたし、
その前に一週間程女の患者さんが入院してた時はもっとイライラした。
わかってる、これは単純な嫉妬。
玩具を取られた子供みたいに、一人で怒ってるだけ。
先生はお医者さんだから患者に男も女も関係ないのはわかってるし、
それに今までだって久美子や和登ちゃんと話してたって平気だったはずなのに。
「先生のバカ!もう知らないっ!」
「あっおい、っ!?……」
無理やり先生の腕の中から抜け出すと、私はそのまま自分の部屋に駆け込んだ。
「嫌われ…ちゃったかな…」
ぱたりと床に、涙の粒が落ちる。
自分に対する嫌悪感と、言い過ぎた事に対する後悔。
そしてそれをも上回る、不安な気持ち。
だけど、このままじゃいられない。
「…頭冷やしたら謝らなきゃ」
まだ涙で霞む目を拭うと、私はベッドに身を沈めた。
「…、…?」
「ん…ぁ」
ぼやける視界に映る、黒と白。
それが段々とはっきりしてくると、先生が心配そうな顔でのぞき込んでいるのがわかった。
私はまだ、ベッドの上。
室内がだいぶ暗くなっていたので、どうやらあの後そのまま眠り込んでしまったらしい。
「…全然部屋から出てこないから、いい加減心配になった。
そしたらお前さん、泣きながら寝ちまってるんだから焦ったよ」
「…ごめんなさい」
「…それ、さっきも寝ながら言ってたぞ。“先生ごめんなさい”ってな。一体どんな夢を見たんだ?」
くつくつと笑いながら、私にそう問いかける先生。
ベッドに腰掛けると、まだ横になっている私の髪を優しく梳いた。
ひどく優しいその手つきに、涙が出そうになる。
…良かった、まだ嫌われてない。
先生はまだ、私の手の届くところにいる。
「なんで優しくするの…?さっき私、ひどい事言ったのに」
「あれくらいなんて事ないさ。…と言いたい所だが、正直な所少し堪えたがね。
それよりもお前さんがどうしてあんな事を言ったのかが気になるよ」
私の質問に苦笑いを浮かべてそう答えると、今度は逆に質問された。
「…ごめんね」
息を一つ、ゆっくりとつく。
大丈夫、今ならちゃんと言える。
「私、嫉妬してた。
特別な感情がないの、わかってるけど先生が他の女の子と話すのが嫌だったの。
私の事心が狭い女だって幻滅した?私の事嫌いになった?」
先生の顔に手を伸ばし、その頬に触れる。
そうすると先生は、その上に自分の手をそっと重ねて柔らかく微笑んだ。
「なるもんか」
「ほんと?絶対?」
「ああ。むしろ嬉しい…」
「んっ…」
次の瞬間唇が重なる。
温かい舌が絡み合い、息が少し苦しくなるけど、それでも貪欲に口づけを求めた。
頬に触れていた手は、背中に回して。
もっと近くに来れるように、体も、心も。
「っ…先生…」
「…が可愛すぎて、止めらない」
「うん…いいよ。その代わり…」
「ん?」
「私の事だけ、見ててね」
あなたの事が好きだから、傷付いて。
あなたの事が好きだから、泣いて。
それでも一緒に居るのは、やっぱり好きだからで。
理不尽な感情に振り回されても何をしても、
それ以上に、得られる幸せがある。
与えられた愛情から、生まれる幸せ。
それを受けて私はまた一つずつ成長していっているのかもしれない。
そう思った一日。
fin.
あ け お め … ! (超今更)